ヒマラヤの尽きせぬ魅力、価値を、ヒマラヤ関連の映画作品を通じて世界の人々に伝えることを趣旨に始まった国際映画祭−それが、「Himalaya Film Festival(ヒマラヤ国際映画祭)」だ。オランダのNGOであるヒマラヤ・アーカイブ・ネーデルランド(Himalaya Archief Nederland)が2003年よりアムステルダムで開催。

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HAN代表はオランダ人医師のグレン・ミトレイシング。オランダ人の父親とネパール人の母親の間に生まれる。青年期、彼は自らのルーツ、アイデンティティを求めて母親の故郷であるネパールヒマラヤを放浪し、そこで、山々のとてつもない大きさ、千数百年の年月に育まれた固有の文化の奥深さなど全てに圧倒される。それ以来、ヒマラヤの素晴らしさをオランダを初め世界に伝えたいと長年切望してきた。彼の熱き思いに、ヒマラヤを愛する各国の映画監督が賛同し応えたことにより、2003年、映画祭は実現の運びとなった。

2007年2月初旬、アムステルダム(オランダ)で第5回ヒマラヤ国際映画祭(Himalaya Film Festival 2007)が開催。今回の「テーマ」は”'Mapping the Tibetan World”("チベット世界を探検する")。すなわち、「チベット世界」のフィチャー。このテーマに沿い、宗教、自然、習俗など様々な視点でチベット世界を捉えた作品群がラインナップの中心に据えられた。21世紀の現在も固有の特徴を色濃く残すチベット文化は世界的に見ても大変ユニークな存在。しかし、その希有の文化、宗教を生み出したチベット及びチベット民族は、中国政府による急激な「チベット近代化政策」により自然破壊、伝統文化・アイデンティティの喪失等の危機に直面している。チベット仏教の最高指導者且つノーベル平和賞受賞者であるダライ・ラマ14世もこのことへの憂慮を幾多のインタビューの中で吐露している。今年度のテーマ設定にはこのような背景もあったのだ。

今後、ヒマラヤ国際映画祭は、この様に毎回違った具体的なテーマ(性)を持ちながら進んでいくだろう。監督、専門家、そして観客とのネットワークが更に広がっていけば、当然、様々なスピンオフ企画も生まれるはず。個人的には、「映画祭」を核とする”ヒマラヤ環境文化ムーブメント”を創出したいと考えている。

2006年、ヒマラヤ国際映画祭は転機を迎える。海外での初開催、東京開催が実現したのだ(「ヒマラヤ国際映画祭Tokyo 2006』)。実質的な映画祭の国際化に伴い、 統一趣旨を“ヒマラヤ地域を通じて地球と人間の結びつきを考える”と定め、東京開催では特に、”ヒマラヤを通じて地球環境を考える”ことをテーマとした。映画の上映に加え、関連シンポジウム(「地球温暖化問題」)をヒマラヤの氷河が融けている実情を示した映像を交えながら実施(パネリスト:西澤潤一氏(首都大学東京学長)、小池百合子氏(環境大臣(当時))他)。この模様は、後日、NHK(BS)で放送された。

当初、「ヒマラヤは日本人に余り馴染みがない。映画祭には900人も来れば御の字」との(日本側)関係者が大半でした。しかし蓋を開けてみれば、予想を遥かに上回る約2000人もの来場者(7日間)!中には、態々地方より泊まりがけで来て下さった方もいて、日本におけるヒマラヤの秘めたる”求心力”を改めて実感させられた。

「アメリカ人男性が世界で初めて盲目としてエベレストの頂を極めた記録—『盲目のクライマー』」、「開発の波に翻弄されるチベット族遊牧民の苦悩−『遊牧民と呼ばれて』」、「ノスタルジックな民謡のルーツを探り山々を放浪する男たち—(『歌声はヒマラヤの彼方に』)など、厳選した16作品は押し並べて好評。又、招聘した監督の一人で、ネパール内戦下の教育状況を描いた(『戦火の中の学校』)ドゥルバ・バスネット氏がNHKのニュース番組(『おはよう日本』)で紹介され、反響を得た。更に、映画祭は、土曜スタジオパーク、ラジオ深夜便(以上 NHK)、毎日新聞、山と渓谷、ソトコトなどのメディアでも紹介された。

観客の方々より「ユニークで素晴らしい映画祭だった」、「来年の開催が待ちきれない」など嬉しいお言葉も多数頂き、開催までの数々の苦労が報われた思いであった。

会期3日間に、世界各国より選ばれた秀作(ドキュメンタリー&ドラマ)50本以上が上映されている。登山・文化・民族・環境問題などジャンルは様々。オランダのみならずヨーロッパ各地より観客が多数訪れ、映画の鑑賞だけではなく、招聘された監督及びヒマラヤ専門家との交流、音楽イベント等を通じて、ヒマラヤに対する理解を深めている。私は、2004年度にドキュメンタリー作品(『チベット難民〜世代を越えた闘い』)が選ばれ現地で多くの知己を得た。厳しい状況の中フリーで制作を続けるアジア人監督たちと知り合えたことは、特に刺激になり、収穫だった。